【対談】フィンランドの教育から考える!「子どもの非認知能力」を向上させる授業とは?

【対談】フィンランドの教育から考える!「子どもの非認知能力」を向上させる授業とは?

「フィンランドの教育から考える学校改革」をテーマに、フィンランド教育の視察経験があり、大阪府の泉佐野市立新池中学校で学校改革に取り組んだ徳留宏紀さんと株式会社カルペ・ディエム 西岡壱誠が対談!
「フィンランドの教員の特徴は?」「どうやったら生徒は自然に学びはじめる?」「学校改革はどこから取り組めばいい?」など、貴重なご経験に基づくお考えについて伺いました。

徳留宏紀(とくどめ・ひろき)さん
Nordic Educations代表 教育コンサルタント。フィンランド・ヘルシンキ在住。元公立中学校教諭。岡山大学大学院にて非認知能力の研究を実施。学力向上コーディネーターとして、教科学習を通じて非認知能力&認知能力の向上を実現。「教員の心理的安全性を高める組織マネジメント」で2019年度日教弘大阪支部最優秀賞受賞。幼稚園~大学に渡る教育現場、保護者向け・企業対象に非認知能力に関する講演会の実施。

目次

教員は「プロフェッショナル」!──フィンランド視察で感じたこと

西岡
本日はよろしくお願いいたします!
早速、徳留先生の経歴について伺います。しばらく学校の先生をやっていらっしゃったはずですが、何年間でしたっけ?

徳留
徳留宏紀です。よろしくお願いいたします。僕は公立中学校で8年間教員をしていて、今は岡山大学で研究をしています。

西岡
2023年1月から、以前一度訪れられていたフィンランドに再び行かれるとお聞きしましたが、岡山大学に席を置きつつということですか?

徳留
そうですね。岡山大学のプログラムなどではなく、自主的に渡航します。それが終わると、4月からはまた岡山大学での生活を再開する予定です。

西岡
なるほど。徳留さんは今日本で非認知能力のことを中心に学んでいるとのことですが、フィンランドでは何を学んでこられる予定ですか?

徳留
ヘルシンキ国際高校という学校現場にいくということだけは決まっていますが、具体的なことはまだ決まっていません。学校では、現地の先生のサポート、ティーチングアシスタント的な役割をする予定です。

今回僕が行く学校は語学に力を入れている高校で、日本語学習者もいるので、日本の高校との連携も出来たらいいなと思っています。また、日本で語られている「フィンランド教育」が実際どのようなものなのか、現地に行って自分がどう感じるのか、実際に体験してくるつもりです。

西岡
教育業界では北欧の教育が進んでいるとよく聞くけれど、具体的にどんなところが先進的なのかについては、まだそこまで知られていないかと思います。既に一度フィンランドを見たことのある徳留先生からするとどうですか?

徳留
フィンランドが数年前に注目されて、多くの人が視察に行き始めたのは、フィンランドが学力テストで高得点をとってからだったと思います。私はそのブームが少し収まってから行きました。

そこで感じたのは、日本と比較して、日本以上に子どもたち一人ひとりを大切にする教育だということ。さらに、「教師」という仕事も社会的にかなりリスペクトされている、あこがれの仕事になっているため、高い信頼感の中で先生方が働かれていると感じました。子供が大事にされていること、教師が「プロフェッショナル」であることが印象的でしたね。

西岡
近年、日本では教員のなり手不足が叫ばれたりしていますが、どうやったらその問題が解消できるのか、なぜフィンランドはそこがうまくいっているのか、気になるところです。徳留さんはどう思います?

徳留
前回視察に行ったときには幼稚園から小中高まで行ったんですが、どこでも共通しているのは、先生方が信頼ベースでやっていることです。先生一人ひとりも、「教師」という職業も、かなり信頼されているなという印象でした。そもそもシステム上、フィンランドで教員になるには修士課程までいかないといけず、子どもたちの前に立つためにアカデミックなことを学ぶ必要があります。このあたりは、信頼感を支える要因の1つですかね。

また、面白かったのは、校内研修、教員養成について聞いたときのことです。僕がフィンランドの先生に研修について聞いたら、「何を言っているんだ」と反応されたんです。というのも、その先生曰く、「私たちは、子供の前に立つときまでに、教師として完璧な状態で立てるようになるまで研鑽を積んでいます。教師になってから全体で研修を行うことはほとんどありません。自主的に研修チームを作ることはありますが。」ということだった。これを聞いて、先生たちのプロ意識も高いからこそ子供も先生を信頼できるんだろうなと感じました。

西岡
プロとして十分育成された状態で先生が学校に行っているってことは、つまり、現場に行くまでの準備期間が充実しているということなんですかね?

徳留
たしかに、教育実習はかなり充実してましたね。教育実習の期間が非常に長く、しかも複数回実施されていました。
また、国の制度を見ても日本とは違いがあります。日本は、全国で一律の学習指導要領があって、教科書も市町村によって決められて、それに従ってある程度標準的な教育が提供されます。しかし、フィンランドでは教員にかなりの裁量権があります。もちろんある程度国家が定める基準はあるけれど、これは最低限で、あとは現場の先生が教科書の採択から教える内容まで決めることになっています。これはまさに、国も先生のことを信頼していて、先生にもその分責任があることをよく示していると思います。

西岡
こうして聞くと、学校の先生がまるでお医者さんのようですね。日本は、保護者も含め、先生をプロであるとそこまで認識していない感じがします。世の中にあまり出たことのない人が先生をやっているとか、他に当てがないから先生になっただろうとか言われちゃうこともあったりして。

一方お医者さんに対しては、「ちゃんと勉強や訓練をしている」という認識が一般に浸透していると感じます。その結果、患者よりいくら若かったとしても、自分の体についてはこの人に任せようと思って受診するわけです。実際、医師は研修期間も長いですしね。

徳留
それに関連して言うと、医師になるまでの過程で求められる内容は非常に専門的で、一般人にはなかなかわからないですよね。それに対して「教育」となると、みんなが学校で教育を受けてきて、しかも保護者の方なら子育てもしてきているので、誰もが教育に対して当事者になってるんですよね。学校の先生はもちろん教育を担っているけど、他の人もなんとなくその世界がわかるという。

フィンランドの教育と非認知能力の関係性

西岡
たしかに、そのあたりの認識の差はあるでしょうね。

とはいえ、先生方にも免許を取るための認定試験や採用試験がありますよね。そこで、日本とフィンランドでそうした試験を比べると、プロ意識の話からするに、やはりフィンランドのほうが厳しいのではないかと想像します。もしそうだとして、日本では試験等で問われないけど向こうでは「学んでいる・問われる要素」としてはどんなものがあるのか気になりました。

答えを聞く前の僕の予想としては、それこそ非認知能力じゃないかと思うんです。日本の先生方は、意外と「非認知能力」という言葉自体をあまり知らないイメージです。一方向こうだと、むしろそれがメインなんじゃないかと。たとえば英語の先生も、英語そのものを教えるというよりも、「英語を使って非認知能力をどう身につけてもらうか」というようなことをやっているのではないかと想像しています。フィンランドの「プロ」たちは、そういうことを大学で学んでいるのか、それとも独学なのか、どうなんでしょうか。

徳留
僕が読んだ論文によると、フィンランドの教員養成学部への志望者の選抜の在り方が、暗記型の勉強では対応できないように工夫されていて、自主性や協調性を評価されるものであるという話があります。まさに教員養成学部に入る前から、非認知能力が求められているということです。。日本でも、「学びに向かう力、人間性等」という言葉が使われていて、いわゆる非認知能力に対する意識はあると思います。ただ、まだそこまで重きは置かれていない印象です。

以前フィンランドの学校を視察したとき、その学校の校長先生は、「子どもたちは学び方を学ぶのが大事。そして、自分がどうやったら最もよく学べるのか、自分がどういう人間なのかを知るのが幸せな人生に不可欠。だからこそ、それができる環境を作ることと、学びのサポートをすることの2つが教師の仕事なんだ」とおっしゃっていました。これは自分の中でも印象に残っていて、日本に帰ってからも、環境づくりとサポートが自分の教育における2軸となっていきました。

西岡
関連して、岡山大学で非認知能力の研究をしていらっしゃる中山先生の言葉で印象的なものがあります。それは、「日本ではアクティブ・ラーニングという言葉が流行したけど、それは間違っている。ラーニングはもともとアクティブな営みで、アクティブではないラーニングなんてないだろう」というお話です。たしかに、僕たちはそのあたりをちゃんと考えられてなかったなと。

徳留
「アクティブ・ラーニング」という言葉が、逆説的に「やらされる、受動的な」ラーニングの存在を予見させるという。

西岡
日本の共通認識としてそういうものがあるんでしょうね。そう考えると、先ほどのフィンランドの校長先生の話を聞いて、日本とは根本的に学びに対する意識が違うなと感じました。

徳留
恥ずかしい話ですが、僕自身が8年前に初めて教師として働き始めたころに考えていたのは、「一斉授業のなかで自分がどれだけうまく説明できるか」「どれだけ静かな状態で授業できるか」ということでした。当時は学校が生徒指導面で大変な状況にあったこともあって、押さえつけることばかりを意識していたんです。一人ひとりを大切にするのとは真逆ですね。そして、当時の学校の雰囲気もあって、「子供に調子に乗らせない」方針が正義として語られる。こうした「生徒指導」には当然子どもたちも反発して、環境が悪くなって……という悪循環を生まれていました。

そこからフィンランドに行って教育観がだいぶ変わったので、フィンランドの前と後では人が変わったような授業をするようになりました。笑

西岡
僕も一度徳留さんの授業を拝見して驚いたのが、授業は基本的に「生徒が各々授業動画を必要に応じて、自分のペースで視聴する」というものだったことです。生徒は授業の最初に「この授業でどのような非認知能力を身に着けるか」を宣言して、その上で勉強しているというのが印象的でした。まさに一人ひとりが主体的になって色々なことを学んでいるという印象です。

徳留
その方式は、今の自分が考えうる授業の最終形態かなと思います。子どもたちには、「授業はみんなと一緒に作るものだ」とも伝えていました。子どもたちからも意見を募って、たどり着いたのがあの形です。自分としても準備して、学んで、振り返って、というのを繰り返していますし。僕が担当する理科という教科の学習を通して、いわゆる非認知能力を伸ばしていくというのに重きを置いた結果、そういう授業をするようになりました。

西岡
動画で教えるのと、先生が目の前で口頭で話すのとでは、教える内容が同じでも手法が違います。そして、普通の授業とは手法が違うことによって、生徒同士が教え合うようになって記憶が定着したり、自分なりに何をどう学ぶかをあらかじめ主体的に選択していることで前のめりになったり。手法を変えるだけでも学力向上につながっているんだろうし、これがまさに環境の力なのかなと思っています。

徳留
動画を使っている理由はまさにそれですね。一斉授業だと、どうしてもそのリズムに乗れない人がいますよね。その人はもっと前の段階で分かっていないのに、一斉に先に進むからついていけなくなる。これが動画だと、わからないと思った瞬間に止めて巻き戻せるんです。そうすると、「わからないからもう勉強やめた」を回避して、本人のペースで勉強を進められるようになります。これは一斉授業よりもいいところだと思っています。「学びたいけどわからない、でも助けてもらえない」を救う一つの方法として動画を使っていますね。

西岡
それぞれが自分のペースで勉強できるのはいいですよね。

学生が授業動画を見ている様子
動画授業をみる生徒の様子

徳留
付け加えるなら、モチベーション管理も意識していました。できないことができるようになった瞬間って、他の人に共有したいし、それを認めて褒めてもらいたいはずです。だけど、先生が前で授業していたら、できた瞬間の子供一人ひとりには声をかけられないですよね。これが動画だと、先生はずっとフリーなので、「あの子は今詰まっているな」だけじゃなく、「あの子今わかったな」にも気づけるんです。そうすると、「すごいじゃん」と褒めることもできるし、「あの子は分かってるらしいから、教えてもらいに行ったら」と人間関係を構築することにつなげることもできます。

その上で、僕は授業動画を自分で作成しています。YouTuberやプロ講師の方がわかりやすいケースも多いですが、生徒にとって身近な人、「徳留先生」だからこそ見ようと生徒に思ってもらうためにそうしました。YouTuberの動画だと自分が寂しいですしね。笑

西岡
そうきくと、動画内の先生と生身の先生とで、教室に先生が複数いるようなイメージですね。

徳留
そうですね。最後は1人1台になったので全員が動画を見ていましたが、当初は40人に対して10台のiPadだったので、まさに「10人のiPadが10人の教員を生む」と表現していました。

そして実は、数が少なかったときのほうが良かったこともあります。1人1台は、各々が自分の学びにしっかり向き合えるのが利点です。しかし10台しかないと、そこで貸し借りが発生します。すると、自分がiPadをゲットしたのにも関わらず、見ることなく友達とおしゃべりをしたり、いい加減な学び方をしたりするのは、他者の学びの時間を奪ってしまっていることにつながります。だからこ自分がiPadを使えるときは、自分の学びに責任が持てるというわけなんです。さらには、自分よりも今iPadが必要な子がいた場合は、「自分は別のことをやるから先に見ていいよ」というコミュニケーションも生まれるんです。

こうして考えると、仕掛けとしては、あえて不便なときのほうが良いときもあったなと感じます。ただ単に「お金がないから台数に限界がある」と考えず、「コミュニケーションを発生させる」などの目的を明確にできれば、みんな納得しつつ頑張れるはずです。

西岡
学校は社会生活を学ぶ場所でもありますからね。

徳留
おっしゃる通りです。あとは、理想としては全員がテストで100点を取ることを目指しますが、現実としては難しいですよね。そのときに、一人で黙々と勉強して40点を取ったケースと、教え合いなどのコミュニケーションを経て40点を取ったのとでは、将来的に見て、40点の意味合いが変わってくると思います。そこまで考えると、やはりコミュニケーションも重要だと思いますね。

西岡
他者と協同するのは本当に重要で、同じことは受験でも言えると思っています。よく言うように、一人のために勉強して受かった人は意外と少ないんですよね。学校のため、先生のため、親のため……などと考えている人が多い印象です。

学びの主役は子どもたち──教員は「環境作り」と「学びのサポート」に徹する

西岡
このような授業を実践するにあたっては、「教員力」みたいなものが鍵を握っている部分が大きいと感じました。そこで、学校の先生に対して徳留さんが思うところ、提言したいことなどあれば聞きたいです。

徳留
先ほども「生徒と一緒に作っていく」と言ったように、環境をしっかりと作ってあげれば、子どもたちは自然と学んでいくんだと考えてほしいと思います。もっと成長したい、幸せになりたいと思わない人はいないですからね。

西岡
「ドラゴン桜」の三田先生が、「廊下に立ってなさい」という、授業に入れない罰が学校に存在することについて語っていたのを思い出しました。授業に入れないことが罰として成立する時点で、逆説的に、実は子供も勉強しようという意識を持っていることが分かるという話です。こういう古風な罰を見てとると、日本でも昔から「子供は自然と勉強をするポテンシャルをもっている」という認識はあるんだろうなと。勉強をどうやって強制するかより、どうやってしようと思う気持ちを喚起するかっていうことが大事ですね。

徳留
環境というと、多くの人は椅子の配置やホワイトボード、タブレットなどの物的環境をイメージすると思います。それももちろん大事で、実際僕は、理科室に畳やちゃぶ台を持っていったりした。

西岡
それはすごい。笑

徳留
フィンランドで教室にYogiboがおいてあるのに近いですね。笑

ただ、学習者が左右される環境としては、人的環境も重要だと考えています。そして、それがまさに教員です。教員はサポートをする立場であって、人的環境たる教師のスタンスが押し付け、強制のスタイルだと、子どもたちは自分で学ぼうとしなくなります。

もう一つ大きいのが、一緒に学ぶ仲間です。たとえば、クラスの3~4割が寝ている中で自分だけ頑張るのって無理ですよね。そこで、寝てる子へのアプローチとして、「ここは学びの環境だから……」と、周りの子の環境づくりに協力してあげてね、という意図で声を掛けるんです。もちろんその子が起きていられるサポートをするという意味でもあるし、他の子への環境づくりでもある。

こうやって環境を作っていくことで、気づいたら子どもたちが学びに向かっているっていうのが重要だと思います。

西岡
たしかに。

ただ、そうは言ってもやりやすいのは一斉授業であり、教員が生徒に一方的に語る方法だなと感じてしまうことがあります。「誰かわかる人いますか」と聞いてみんなが静かになっちゃうことはよくあると思っていて、そのときについつい生徒をランダムで当てたくなるんですが、どうしたら良いんだろう。

徳留
「やりやすい」の主語が大事だと思います。今の話って、教員がやりやすいという話で、子供が学びやすいかどうかではないですよね。どれだけの子がその授業に乗れているか、やりやすいと思えているかというと、イマイチじゃないかなと。主語が教員になっている時点で、良い答えが引き出しづらい構図になってしまうんですよね。もちろんそういうシチュエーションはよくあるし、聞きたくもなりますけどね。笑

西岡
生徒主体だという意識が欠けているからこそ起こることはあるかもしれませんね。

最近だと、グループワークをした上で前に出てきてもらって発表、という形式の授業をすることがあるのですが、これもなかなか難しいと感じます。

ひとついいなと思っているのは、グループを作る際に「もうみんな大人なんだから自分たちで配慮できるでしょ、うまく輪に入れない人をグループに招き入れるくらいできるでしょ」と言ってから、グループ分けを始めることです。実際、こうすることでグループ分けにはあまり困らなくなりました。

徳留
そこは、非認知能力で言うところの他者を思いやる、受容する力を育むところにつながってきますよね。本当に一人になってしまう子供がいたりしたら難しいけど、自主的に配慮しながらグループ形成できる集団を作っていくというのは大事です。

また、グループ分けの前に、「一人になりそうな子に声をかけられるのは素晴らしいことなんだ」と教員側が価値づけするのもよいと思います。その上で任せると、何人かは自然にできるようになりますし、それをまた教員からフィードバックすることもできます。

西岡
先生からの価値づけは重要ですね。「今日はこういう授業をやります」と言われたときに、生徒がそれに納得していることはやはり肝になると思います。

徳留
納得感でいうと、「今日習うこれは人生のどこで使うんだ」って話は必ずあります。このときは、「教科の内容そのものよりも、この授業を通してどんな非認知能力がどうやって身につくか」という方を考えてもらうことで、意外と子どもたちにも納得してもらえるんです。

西岡
そもそものゴールが違うということですね。ゴールとして受験勉強を設定すると、ついつい教科の内容理解の比重が大きくなってきて、これで技能が身につくのか、ということがどうしても最初に来るようになりますし。
非認知能力を育むことも必要なんだと、先生もちゃんと話せるのが大事ですね。

徳留
ゴールを共有できるのは本当に重要です。

「とはいえ高校や大学はいわゆる勉強、偏差値が大事だろ」と言われます。たしかにそうです。でも、教育の一番の目的は何かと考えると、人格の完成なんですよね。そこを目指すなら、もちろん点数的な話も必要だけど、大人になってから本当の意味で幸せになっていくためには、非認知能力も欠かせないよね、ということを伝えています。

西岡
最近共通テストなどの問題を見ていると、教科の学習ができるできないも大事だけど、究極的に点数を追求すればするほど非認知能力が求められているように感じます。

たとえば共通テストは、深く考え過ぎると点数が低くなることがある。というのも、とにかく問題数が多いので、解けないときに飛ばす判断力が必要になるんです。そこでどう判断を下すかっていうと、周りの人がその問題をどう捉えているかを考えて、多くの人が難しいと考えているなら飛ばしていいと判断するわけです。これは周りを意識することにも、メタ認知的なところにも繋がりますよね。

徳留
他者を意識するという話は、西岡さんが2浪を経て東大に受かることにもつながってくるわけですね。笑

西岡
その通りです。笑
最初の方の自分は、他者を意識するようなことはできなかったので……。

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この記事を書いた人

現役時、進路を見つめ直した結果、センター試験の2日後に突然東大受験を決意。1浪の末東大へ合格し、現在は法学を専攻。法律の文章や日々の雑談を含め、「ことば」と向き合うのが好き。趣味はお昼寝。

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