2023年のNHK大河ドラマ「どうする家康」では、松本潤さん演じる「新たな家康像」が話題になっています。また同月には、60年ぶりに徳川宗家の当主交代が行われ、徳川家広氏が第19代当主となりました。
今回は話題の中心人物の1人である、徳川家広さんへ東大生がオンラインインタビュー!徳川家から読み解く、現代人に必要なこととは?偉人の子孫として、どのようにキャリアを歩んでこられたのか?などお話を伺いました。
徳川家広(とくがわ・いえひろ)氏
公益財団法人 徳川記念財団 理事長
1965年、東京都生まれ。翻訳家。作家。徳川宗家19代目にあたる。慶應義塾大学経済学部卒。ミシガン大学大学院で経済学修士号、コロンビア大学大学院で政治学修士号を取得。訳書にS・ナサー『大いなる探求』、W・バーンスタイン『「豊かさ」の誕生』など多数。
「前のめり」な治世を行った将軍は?
ー 本日はよろしくお願いいたします。
NHK大河ドラマ「どうする家康」に関連したインタビューも数多く受けられていると思うのですが、実際ドラマをご覧になっての感想を教えていただけますか?
初回は松本潤さんと一緒に見たんですよ。パブリックビューイングという形で岡崎市の公会堂で観たのですが、非常に面白かったです。歴史劇でありながらコメディータッチな演出が分かりやすくて、今川義元公の描き方も、従来とは違って重厚で、大変に新鮮でした。カメラワークにも凝って、とにかく飽きさせないような工夫がされていて素晴らしいと思いました。
ー 私も拝見したのですが、引き込まれてしまって、時間があっという間でした。
ドラマでは徳川家康が主人公として描かれていますが、今回は、カルペ・ディエムのテーマである「前のめり」という視点で徳川家のお話を伺いたいと思います。
歴代将軍の中で、「前のめり」な政治を行った将軍をあげるとすると何代目でしょうか? 5代将軍の綱吉公は生類憐みの令を出すなど積極的な治世だったのではないかと感じているのですが……。
難しい質問ですね(笑) 少し質問と離れますが、組織の中で高い地位にあればあるほど、受け身になってしまうことが多いと思います。そうすると、どうしても現場とのギャップが大きくなっていくんですよね。書類が上がってきてサインしてくださいと言われて、中身を確かめずにサインする、みたいなイメージです。部下たちも利権を貪っている可能性があるのでどこまで正直かわかりません。
そうした中で、どうやって適切な判断を下していくかは、現代においても多くの人が直面する問題だと思います。将軍家にも共通することですが、受け身な環境の中においても、どう流されないかが重要ですよね。これを踏まえて、私は生類憐れみの令というのは別に、綱吉将軍の独走ではないと思っているんですね。
ー なるほど。詳しく聞かせていただけますか?
「戦乱の世」から「平和な世」へ移り変わる時に、最後に出てくるのって「心のケア」という問題だと思うんです。ここからは私の想像ですが、もし家康公が亡くなる際に、暦がひと回りして(つまり還暦。「60年が経過して」ということ)もまだ徳川家の天下が続いていたら、生類全てに慈悲を及ぼすようにせよというようなことを言っていたとする。こう考えると、家康からの申し送り事項という、究極の受け身で綱吉がやったことになるわけです。
では、前のめりかつ建設的に決断した部分は何かというと、金の含有量を下げた元禄小判を発行したことと、北前船航路を整備して日本海北部を大坂と結んだことだと考えています。特に小判の改鋳は、周囲の反対も強い中で進めたので、綱吉将軍はこのような問題がもとで、寿命を縮めたのではないかと私は思っているぐらいです。
ー 「判断を下す」というのが「前のめり」な行動の1つになってきそうですね。徳川家の歴史を踏まえたとき、良い判断を下すためにはどのようなことが必要になってくるのでしょうか?
現代日本においても、仕事の進め方や書類の書き方って江戸時代的な部分が残っていると思います。そういう意味では、最終的な判断を下すトップの立場にいる人の仕事というのは徳川将軍とあまり変わらないのではないかと思います。
徳川家でいえば、老中や側用人、御庭番など周りの人のさまざまな意見を整理し、誰が一番信用できるか見極め、その人の提案を広げていく。それ以上のことはできなかったはずです。相手の言うことを聞いて、熟考して、判断する。もしくは本当に信頼のできる腹心に決断を任せるときもあると思います。そうすることも判断の1つですよね。
いつの時代も、優秀なブレーンがたくさんいる中で、ベストな意見を見抜く力が必要なんだと思います。
ー ジェネラリストの姿勢を基本としつつ、やること・やらないことの見極めができるというのが大切ということですね。その意味で、やる・やらないのバランス感覚が優れていたのはどの将軍だとお考えですか?
第八代将軍の吉宗だと思います。吉宗は、第五代将軍の綱吉から失敗談など、いろいろ教わっているわけですよ。これは徳川幕府の非常に良かったところなんですが、どの将軍も、いつ幕府が潰れるか分からない!という恐怖感を持って仕事をしていたので、真面目にいいアドバイスをしてくる先代が多かったようです(笑) 失敗談をわかっていると、判断の軸ができるので、バランス感覚も培われたんじゃないかと思います。
徳川宗家に生まれて、歩まれてきたキャリア
ー ここから、家広さんの歩まれてきたキャリアについてお伺いしていきたいと思います。徳川宗家の生まれというと、特殊な環境などがあったのでしょうか?
私は、現在は徳川記念財団の理事長を努めていますが、生まれたときから、この道が決まっていたわけではありません。私の歩んできた道に大きな影響を与えたのは、生まれよりも、アメリカでの経験だと思います。
私が小学1年生の時に父の仕事の関係でアメリカのニューヨークの郊外に引っ越して、3年半くらい暮らしていました。私たちは町でただ一つの日本人家族で、日本語学校は自宅から遠い場所にありましたし、日本人が密集している地域にあるような、週末の補習校が全くありませんでした。
そのため、帰国直後は日本語がかなり不自由で、日本の同級生と中々馴染めませんでした。友達と遊んだりするより、本の世界に没頭することが多かったと思います。
学生時代は勉強熱心というわけではありませんでしたが、大学受験で1年間浪人したときに、予備校の現代国語の講義に感銘を受けて熱心に勉強するようになり、慶應義塾大学に進学しました。
ー 徳川家の子孫が、海外で暮らしていたと知ったら、家康も驚くかもしれないですね。子孫ということによる周りからのプレッシャーはありましたか?
そのプレッシャーは意外となくて(笑)征夷大将軍だった時と比べてもしょうがないですし。家訓とかも、ですからありません。父から言われたのも「悪いことをしてはいけないよ!」とか漠然として当たり前のことばかりなので、プレッシャーも特にはなかったと思います。
ー そうだったんですね。では、大学進学後のキャリアも、ご自身で主体的に選ばれていったということでしょうか?
そうですね。曾祖父が二人とも外交官でしたので、英語力を生かして外交官を夢見た時期もありましたが、最終的には勉強が足りないからということで(笑)アメリカのミシガン大学に留学して、修士号を取得しました。
アメリカで大学院まで行くと、元を取ってやろうという学生さんが多かったのが印象的でした。授業については、社会科学の本場が英語圏ということもあり、わかりやすくて面白かったです。
ー 日米の大学に通われて、どのような違いを感じましたか?
アメリカの大学の日本の大学との大きな違いは、大学に入ってから専門を決めるところだと思います。日本の大学の学部制度だと、専攻する学問がどういった学問なのかをろくろく理解できる前に、高校生の時点で進路を決めなくてはならない。これは学生にとっても大学にとっても不幸だと思います。
アメリカの大学ですと、卒業時に何々専攻になれるよう、講義を選んで単位を取得していくという仕組みなので、先生たちも自分たちの専門の魅力を一生懸命、学生さんたちに見せていかなくてはならない。学生にも、それから門外漢にもわかる言葉で自分の専門を説明しなくてはならない先生たちにも、良い仕組みだと思います。教える方の力量が問われ、学生も自分で積極的に学科を選んでいかなくてはならないので、日本よりは厳しいわけですが。
ー 大学院卒業後は、どのようなことをされていたのでしょうか?
国際連合食糧農業機関(FAO)という国際機関に就職しました。アジア18カ国の食料需給をモニターして、どの国で、いつ頃に食糧援助が必要になるかを予測するというのが仕事の内容です。
当時は中央アジア諸国が動乱の時代で緊急食糧援助の必要が高かったのですが、こちらは「ヨーロッパ」という括りで、私は関係ありませんでした。アジア18カ国というのは、ラオスから日本までを含むので、ずいぶんとのんびりしていました。もう少し手応えのある仕事を、ということで、ベトナムの食糧需給を監視するシステムを立ち上げるというプロジェクトのエコノミストとしてハノイに2年半ほど赴任しました。
当時のベトナムは現在と比べると、まるで別世界でした。 1993年のカンボジアの民主化は日本も深く関わっていましたが、実はベトナムはそれ以前のカンボジア内戦に深く関与していて、そのせいでアメリカの経済制裁を受けていました。それがやっと解除された時期に私はハノイに移ったわけですけれども、改革開放路線も一進一退という調子でしたね。たとえば、主たる農産物のお米の生産も、国全体ではなく、県ごとの自給自足を目指す、というのが当時のベトナムの農業政策の柱でした。道路事情を考えるとわからなくもないのですが、やはり経済合理性を欠いていると言わざるを得なかった。
日本の文化財を守るために>
ー なるほど。さまざまな経験をされて、現在は徳川記念財団の理事長をされているということですが、どのような経緯で設立されたのでしょうか?
設立したのは父の恒孝です。徳川宗家の歴史資料というのは、江戸時代の規模からするとかなり小さくなっているのですが、それでも価値の高いものもあり、個人で何代にもわたって維持していくのは難しい。父が宗家を継いだのは1963年のことでしたが、それから半世紀を経過して、世の中は激変してしまった。そうした中、貴重な文化財を、徳川宗家伝来という由緒を大切にして、まとめて保存するために、というわけで、2003年に財団法人としての認可がおりました。
ー 文化財保護のために財団を設立されたんですね。日本の文化財は海外からの注目度も高いと思いますが、家広さんの海外でのご経験とつながった点はございますか?
海外からの注目度が高いのは、文化財というよりも、芸術品や手工芸品という括りにしたほうが的確かと思います。私個人に関しては、徳川の家を代表して海外に行くということ、これまでなかったので、自分でそうした経験をしたことはありません。ただ、経済が停滞していると言われつつも、安定して安全で独自の文化を発展させている日本に対する関心は高く、そして世界のみなさんは、日本についてだんだん勉強をなさっているうちに、これまでの日本史や日本文化の説明では、わけがわからない(笑)ということに気がつきつつある。そういう状況下で、いろいろな可能性が、この財団にはあると考えています。
ー ありがとうございます。最後にこの記事を読む学生に対してのメッセージがあればぜひお願いいたします。
今の日本では、若い人は本当に辛い。学生さんの将来不安も、かつてないほどのものだと思います。じっさい、国の未来には不透明感が漂っています。ただ、それでも今の日本は世界的には恵まれているというか、ずっとましです。安全保障上の問題も、言われるほどの深刻さはありません。大規模な社会不安も、今のところは、ありません。この先が大変だといっても、準備する時間は、まだまだあると思います。
では具体的には、どう準備するか。一つは、古い本を読むことです。古典といわれるものを読むのは素晴らしいことですが、そこまで行かなくとも、昭和末期くらいの本でも、今よりは語彙もはるかに豊かで、何より日本語がしっかりしていた。それから、読書のこつは、「読まなくては」と大袈裟にとらえず、楽しいと思ったものだけを読んでいくことです。
読まなくてはいけないのは、むしろ新聞だと思います。新聞を毎日、とにかく紙面のほとんどに目を通す。この作業を続けると、学生から社会人へと知らず知らずに変身していけると思います。
あとは、国語辞典を「あ」の最初から、ただただ読んでいくという作業も良いと思います。時間がある時でないとできないですし、かなり安上がりです。デジタルシフトの波の中で、母国語に対する深い理解があるというのは、今後強みになっていきますよ。
徳川家康が注目を集めた2023年にぴったりのお菓子
インタビュー時に「楓果(ふうのか)」のお話をお伺いしました。
楓果(ふうのか)は、徳川家広氏の徳川宗家十九代継承を記念して誕生いたしました。贅沢に栗を練り込んだ白餡を、栗の風味香るカステラで包み込んだ、芳醇な味わいの和菓子です。
中国皇帝の庭、徳川将軍の庭、皇居のお庭、そして各地の東照宮といった特別の地で生育する楓の木を連想させる、上品な味わいをぜひご賞味ください。
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