幼いころは、何よりわたしの容姿が困惑の対象となった覚えがある。
「なんで髪ふわふわなの。」
「なんで肌黒いの。」
「なんで目でかいの。」
そのほか数えきれないほど自分の容姿について質問を受けたが、そんなこと聞かれてもわかるはずがない。むしろ、わたしが知りたいくらいである。みんなと同じように日本語を話し、同じように学校に行っているのに、自分だけなぜか異様なもののように感じる。しだいに、わたしの見た目は、一種のネタのようになってきた。
たとえば、わたしの髪の毛は、「マイケル・ジャクソン」や「マラドーナ」と結びつけられることになり、髪を下すたびにアーティストやサッカー選手呼ばわりされることとなった。今思えば、こんなビッグスターの名前で呼ばれることは光栄極まりないことであるが、当時はちっとも嬉しくなかったことをよく覚えている。幼いころは、誰しもみんなと同じになりたいものである。思えばくせ毛の子や肌の色が濃い子は、わたしのほかにもたくさんいたが、学校にいるとなぜか自分だけが異星人かのように思えてくることがあった。
混乱を生んだのは、わたしの見た目だけではない。
小学生のころから国語や漢字が得意だったわたしは、テストでもしばしば高得点をとることがあった。そのときには、決まって
「なんで日本人じゃないのに、日本人より点数いいの。」
と聞いてくる子がいた。読書好きでいつも本を読んでいたし、試験前には母と毎晩漢字練習をしていたのだから、高得点が取れてもなにも不思議ではないのだが、まわりの人にはなかなか納得のいかないことだったようである。
それから、小学校で何度か運よく書初めの展示会に出展させていただく機会もあったが、そのときにも
「なんで日本人じゃないのに上手な字が書けるの。」
とよく言われたものだ。これまた、たくさん練習したから上手に字が書けるようになっただけだったが、不思議な現象としてとらえられることとなってしまった。
たしかに、見た目やバックグランドという点においては、わたしはまわりに比べて少し(ばかりではないかもしれないが)特異だっただろう。しかし、よくみてみると、わたしたちはみなそれぞれ固有の特徴をもっている。金子みすゞの有名な詩の「みんなちがってみんないい」とはよく言ったもので、ほんとうにわたしたちはみんなちがうのだ。要は、その「ちがい」が大きいか小さいかである。
だから、自分とのちがいが大きいからと言って、そんなに怖がることはない。そもそも自分とちがうことは、あたりまえなのだから。
そして、まわりをよくみてみると、わたしたちは「ちがい」と同じだけ「共通点」ももっている。クラスでひとりぼっちになったりからかわれたりすると悲しい気持ちになり、人にやさしくされたり褒められたりすると嬉しくなる。いい点数や結果を手に入れるために、こつこつ練習したり勉強したりするのもそうだ。
人とかかわることは、ちがいの裏にかくれている共通点を探す冒険に出るようなものでもある。だれかと分かち合うことは、意外とそんなに難しいことではないのかもしれない。
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